2007-06-30

書・書道・臨書:臨書「諸上座帖」(黄庭堅)

 昨日に引き続き、黄庭堅(こうていけん)「諸上座帖」の一節「且執著甚麼為」を臨書してみた。
 やはり、どの箇所を臨書してみても、黄庭堅の人間業とは思えない草書の変幻自在を想う。
 しかし、上の箇所などはまだ平凡な草書の造形であり、余白の取り方なども、凡人の私が“納得”のできる部分。

2007-06-29

書・書道・臨書:臨書「諸上座帖」(黄庭堅)

 中国宋時代、黄庭堅(こうていけん)「諸上座帖」を臨書(「為復別有所図」)。
 この書道(臨書)作品をみて驚く方も多いと思う。草書体をここまで自由に扱う書家もめずらしく、その技術は、もはや人間離れした“神業”である。

2007-06-24

書・書道・臨書:料紙に、古筆「針切」を臨書

 古筆「針切」(はりぎれ)を臨書しているが、今日は気分を少し変え、料紙に「針切」を臨書してみた。
料紙は、仮名用半紙と比べ、墨をほとんど吸収しないので、小筆に含ませる墨の量を(仮名用半紙より)少なめにすると作品制作しやすい。

2007-06-22

書・書道・臨書:臨書「針切」

 最近続けて行っている、古筆「針切」(はりぎれ)の臨書作品を掲載。古筆の場合、実験的に同一の古筆且つ同じ箇所を繰り返し臨書してきた(当ブログでは、同一の箇所は掲載していないが)。
 そこで、先日から同じ針切の古筆でも、違う箇所の臨書を行い、自身の中のリズムを変える試みを行っている。
 臨書する箇所は違えど、やはり(文字造形は小さくても)スケールの大きなところは変らない。そのため、どうしても、大きく揮毫してしまいがちになる。最終行より一行前の部分などは、スケールの大きさに圧倒され、思わず大きく揮毫してしまったところである。

2007-06-20

書・書道・臨書:臨書「針切」

 昨日に引き続き、古筆「針切」(はりぎれ)の臨書。もう少し行間をあければ臨書“作品”として完成度の高いものになる。
 潤筆(じゅんぴつ。墨を多く含んでいる箇所)と渇筆(かっぴつ。カスレ)の対比などで作品の遠近感を表出しており、何ともいえない“自然体”に魅せられる。
 仮名だけではなく、漢字にも応用したいところである。

2007-06-19

書・書道・臨書ブログ:臨書「針切」

 今日は、久し振りに仮名の古典(古筆)をとりあげてみた。その中で「針切」(はりぎれ)というそれを臨書。
 小さい文字ながら、“針”の如く鋭い筆致でどんどん下部に向かって揮毫していくさまは圧巻である。
 また、近代詩文書(きんだいしぶんしょ)作家でありながら、仮名の造形に無頓着というケースもある。だが、仮名と漢字が調和してこそ、近代詩文書作品にも深淵なところが表出されるのである。
 私はそのような書家を目指したいと考えている。

2007-06-18

書・書道・臨書:石鼓文の臨書を生かして

 過日の当ブログ「書・書道・臨書ブログ」でも行った、“石鼓文の臨書を生かした創作書道作品”を掲載してみた(「樹木方盛」)。
 実際に揮毫してみれば分かるが、この篆書体というのは必ず遅筆になり、また、分間布白(文字の中の白を均等に残すこと)が一般に言われているため、集中力の鍛錬に非常に効果的である。

2007-06-16

書・書道・臨書:臨書「蜀素帖」(米ふつ)

 米ふつ「蜀素帖」の続きを臨書。
 五文字目「得」の偏などは非常に趣がある。また、二文字目の「霊」は、中国唐時代の四大書家の一人で顔真卿(がんしんけい)の造形・筆法とよく似たところがある。粘り強く筆勢豊かである。
 それに対し、三文字目の「物」は軽快は動きを見せ、「霊」字との対比には見るべきものがある。

2007-06-15

書・書道・臨書:臨書「蜀素帖」(米ふつ)

 引き続き、米ふつ「蜀素帖」の臨書を行ってみた。
 今回の箇所は、一文字目の「青」の爽やかな線質と、その他のどっしりとした重厚感溢れる線質といった表現方法の違いに見るべきところがある。

2007-06-14

書・書道・臨書:臨書「蜀素帖」(米ふつ)

 昨日に引き続き、米ふつ「蜀素帖」の臨書作品。
一文字目の「土」部分に点が付いているのは、書道作品の世界特有のもの。原本に忠実に「形臨」(けいりん)を強く想い臨書してみた。

2007-06-13

書・書道・臨書:臨書「蜀素帖」

 最近は、自身の書道作品の“粗”を修正するために、「石鼓文」などの篆書や、「曹全碑」などの隷書に取り組んできた。
 今日は、漢字近代詩文書を専門とする書家として、それら書道作品のジャンルに多く用いられる、行書体の「蜀素帖」(しょくそじょう。米ふつ)を臨書。
 特に、一文字目「青」の四画目の“筆のかえし”、三文字目・六文字目の偏と旁の関係などを見ると、やはり米ふつの筆捌きや書道作品制作の上手さを想う。

2007-06-12

書・書道・臨書:石鼓文の臨書を生かして

 今日は、過日の当ブログで公開の「石鼓文」の臨書の成果を生かして「其中有信」を創作作品として掲載してみた。
 篆書の基本で言われる「分間布白」(ぶんかんふはく。文字の中の余白を等しく残すこと)を忠実に守り、石鼓文の臨書で学んだところを発揮した積もりである。

2007-06-09

書・書道・臨書:臨書“書聖”王羲之「集字聖教序」

 “書聖”王羲之(おうぎし)「集字聖教序」(しゅうじしょうぎょうじょ)の臨書作品。
 私の書道教室では、(初学の方には)最初に“筆遊び”で書道用具に慣れていただき、その次に最初にふれる古典を「孔子廟堂碑」(唐・虞世南)と決め、それの臨書に取り組んでいただいている。
 そして、二番目に臨書学習を行う古典が「集字聖教序」と「蘭亭叙」(ともに王羲之の行書の名品)である。
 王羲之の行書の名品というのは、楷書寄りの行書で、なかには楷書と見間違うほどの文字造形もあり、初学の方には比較的習いやすい。

2007-06-08

書・書道・臨書:臨書「集字聖教序」

 “書聖”王羲之(おうぎし)「集字聖教序」の臨書作品。
 「集字聖教序」も書・書道に携わっている者にとって、避けて通れない必要不可欠な要素に満ち溢れている。
 また、王羲之は書・書道の世界の中心的人物であり、王羲之の名品の臨書なくして、“書・書道の何たるか”を追究するのは、困難であろう。

2007-06-07

書・書道・臨書:臨書「曹全碑」

 昨日に引き続き、隷書体の「曹全碑」(そうぜんぴ)を臨書。
 漢字を主に手懸ける書家であっても、やはり行書・草書以外の書体の古典も手懸けなければ、作品に奥行きが出ない。

2007-06-06

書・書道・臨書:臨書「曹全碑」

 「曹全碑」(そうぜんぴ)の臨書作品。
 私は、行・草書体などを制作し続けると、書道作品に“粗”が表れることがある。
 そういう時は、隷書などのような、どう頑張っても早い書きできない書体を臨書することにしている。

2007-06-05

書・書道・臨書:臨書「孔子廟堂碑」

 引き続き、中国唐時代の四大書家の一人、虞世南(ぐせいなん)「孔子廟堂碑」(こうしびょうどうひ)を臨書してみた。
 最初に学習を行う古典は「九成宮醴泉銘」(きゅうせいきゅうれいせんめい。欧陽詢の楷書の名品)という向きもあるようだ。
 しかし、九成宮醴泉銘は、初めて筆を持つ者にとってみれば、あまりにも緊張感が強すぎる。そこで、私の主宰する書道教室では、比較的端整な結構をしており、九成宮醴泉銘ほどの緊張感が無い「孔子廟堂碑」を初めに習う古典、と位置づけている。

2007-06-04

書・書道・臨書:臨書「孔子廟堂碑」

 私の主宰する書道教室で初めて学習していただくことになっているのが、中国唐時代の四大書家の一人、虞世南(ぐせいなん)の「孔子廟堂碑」(こうしびょうどうひ)である。
 しかし、当書道教室の門下の初めて習う古典、というだけでなく、私の書家としての書学にも非常に役立つ古典の一つである。
 『最近、作品に“荒れ”が出てきた』と感じたら、まずこの古典に回帰して、自身(そして自身の作品)を見直す。
 なお、三文字目の「師」は第一画目が不要、六文字目の「土」は(書道作品の世界では)点が必要である。

2007-06-02

書・書道・臨書:臨書「針切」

 先の当ブログでも記述したが、仮名書道作品を制作するときだけでなく、漢字など、他の書道のジャンルを手懸ける書家であっても、その深淵さを表現するには、(古筆の臨書は)必要不可欠である。
 また、近代詩文書は仮名造形も扱う。従って、古筆の臨書を行わなければ、それ(近代詩文書作品)に奥行きを表出させることができない。
 今日は、「針切」(はりぎれ)を臨書(原寸大臨書。文字部分を拡大して撮影するため、周囲の余白をカットしてある)。針のような鋭い筆致で揮毫されているところから、この呼び名がついたとされる。
 そのため(鋭い筆致で揮毫されているため)、非常に小粒な文字造形ながら、全く弱弱しさをみせない。

2007-06-01

書・書道・臨書:臨書「祭姪文稿」より

 顔真卿(がんしんけい)の「祭姪文稿」(さいてつぶんこう)より、「顔」の一文字を臨書してみた。
 半紙一文字(臨書)作品として、思い切りよく、懐が広くて豪快な筆致を臨書、揮ごうした積もりである。